2011-11-22

青年団「サンパウロ市民」を見る&サンゴの狩りゴッコ

昨日に続き、今夜も青年団「ソウル市民5部作連続上演」を見てきました。

今日見たのは、新作「サンパウロ市民」です。








舞台装置はソウル市民連作と同じ、寺崎家は篠崎家と生き写し、
エピソードと台詞は前3作から多くをコラージュしている、
という、手抜きともとられかねない手法で、
ソウルとサンパウロ、地球の表裏でほぼ同じことが起きている、つまり、
どちらも移民でありながら、でも歴史的にはまったく違った結果をもたらした、
という連作ならではの表現を達成しています。

寺崎家も篠崎家同様、無邪気で無自覚な差別意識や選民意識に満ちています。
それを物語るエピソードは、当時の事実や創作を織りまぜながら、
時代背景とともに観客にじわりと提示されていきます。

第1作から同じテーマ、同じ家族、同じようなモチーフをしつこく繰り返すことで、
フーガというより、ラベルのボレロのような高揚に到達した、というと褒めすぎでしょうか?

第1作から第4作に進むにつれて視点がひろがっていることを
昨日の投稿で取り上げましたが、
本作では、国家という「システム」そのもののあやふやさが終幕近くに立ち上がってきます。
言い換えれば、民族、人種という区別さえもが果たして意味あるものか?という
問いかけを観客に突きつけてきます。

それは、ブラジルがポルトガルから独立し、奴隷制をやめ、移民を受け入れながら発展
してきた背景に、インディオと呼ばれる先住民を居留地に追い込んでいったことが
語られる部分でせり上がってきて、わたしたちは静かな衝撃にうたれることになります。

5部作をほぼ2週間で見終えて改めて感じるのは、
平田オリザ氏の台本、演出、作劇理論がまったくぶれていない、
その揺るぎなさに対する畏敬です。

そして、自分の意思通りに肉体を美しく操ることができる鍛え上げた身体を
高い次元で持ち得ている役者の層の厚さにただただ驚くばかりです。

青年団の芝居は、舞台での約束事や作法を一部あえて壊していることや、
計算され尽くした会話を主体に進行していくことに目を奪われがちですが、
台詞のない時の役者の堅実なリアクションや、歌や踊りの技術の高さ、
的確かつ自在に感情を声に乗せることができ、相手に正確に飛ばすことができる
スキルをきっちり身につけているからこそ、表現としてひとつの完成した型になっている
といえます。

脚本に込められた想いを表現するためにどうしても必要だった
役者の肉体を、平田オリザ氏が造り上げたことにオトさんは震えます。

そういえば、この晩も終演後に平田オリザ氏のアフタートークがありました。

観客からの質疑は、歴史的事実に対する考察や台本の解釈に関するものが多く、
ゼミか講義のようなてい(体)をなしてきたのが少々不満に感じました。








さて、こちらは深夜のサンゴこと刈谷ノ三五郎愛助(4ヶ月半、オス、黒)です。








空きダンボール箱の手をかけるための穴から前足を出して、
ロールカーテンの引きひもにじゃれています。








小さな穴なので、先端の玉が見えているとはとても思えないのですが、
正確に足が飛び出してきます。








ついにつかむことに成功しました。








あっと・・・
すり抜けてしまいました。








玉を探してさまよう前足。








今度は箱の中まで取り込むことができました。



せっかくつかまえたのに、サンゴはわざと箱の外へ放り出してはまた
つかまえようとバタバタと前足を伸ばします。しばらく繰り返していました
が、飽きて箱から出てきた時は肩で息をしていました。
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